そもそも学校って何?②不登校児の親は学校や勉強についてどう思ってる?
こんにちは!「不登校のこどもを持つ親のための塾」の見守り隊、ごまちゃんです。
父親代表のひろしです。よろしくお願いします。
早速本題に入りますが、お子さんが不登校になって、父親としてはどうしても学校に行ってもらいたいですか?
それはそうです。甘えているようにしか見えないし、こんなことでは社会に出てやっていけるかどうか心配ですから。
ではお父さんは、学校を「社会に出る訓練」として捉えていらっしゃるんですね。
そうです。時間通りに動いたり、人と協力したり。学校って社会の縮図じゃないですか。
父親の方々はそういう捉え方をしていらっしゃる方が多いようです。でも、そういうアプローチでこどもを説得してもこどもが再登校することは難しいかも知れません。おそらくお父さんは「社会に出ること」を「忍耐」と捉えているからです。
社会に出るのは忍耐が必要ではないんですか?
忍耐だけでしたら、昔みたいに家でずっと農作業をさせたり、幼いころから丁稚奉公をさせたほうが実社会で役立ちます。でもそれは、学校とは大きな違いがあります。今日はその辺りをお伝えします。
▼このブログに初めて来られたかたへ。下の記事で何を伝えたいか要約してあります。
Contents
親塾~学校とは何か①学校は社会に出た際の忍耐を学ぶ場所ではない
この辺りが、実は昨今の不登校が増えている原因ではないかな、と管理人は考えています。
「学校行ってなきゃ、社会に出てやっていけないよ」
系統の意見は、ある程度「学校は忍耐を学ぶ場所である」と認識しているのではないでしょうか。
結論から先に言いますと、
学校は「忍耐を学ぶ場所」ではありません。
例えば時間通りに動くであるとか、自我を押し殺して他人に合わせるなどは忍耐の一種かも知れないし、もちろんそういったことを学ぶ場所ではあるとは思いますが、この「忍耐論」を前面に押し出してしまうと、こどもだけでなく大人だって嫌になってしまいます。
大人の場合は、「働くことは忍耐の連続で嫌だけども、働かないと食っていけない」という抑止力があります。
でも、こどもには、そんな抑止力がありません。
学校に行かなくたって生きていけるし、苦しい忍耐もせずに済む。
もし身近な大人が、「忍耐を学ぶ」ために学校に行くことを勧めるのであれば、こどもはそこから逃げ出すことに一生懸命になってしまいます。
こどもは別に学校に行かなくても飢えてシぬわけではないので、嫌な場所から逃げ出したくなるでしょう。
ものすごく極論を言うと、周囲の大人が「社会で働くのはチョー嫌だけど生きていくためには仕方がない」「忍耐で押し切る」という感覚を持っていると、こどもはその忍耐から逃げ出すために不登校になる、という図式が多いです。
日本人は「忍耐」や「根性」を美化する傾向にあります。もちろんそれは美徳の一種ではありますけど、「社会に出ること」「学校に行くこと」を「忍耐力を育てる」と言う風に捉えると、捻じれた認識が生まれてしまいます。
でも実際問題、男は働いて家族を養わないといけません。そこには多大な忍耐があってしかるべきで、学生時代からそういった訓練をする、というのは間違ってないと思いますけど。
それを言ったら、生きていくことそのものが本来、忍耐の塊になってしまいます。働く事が忍耐、学校に行くことも忍耐だとすれば、生きていくことは忍耐そのものですか?
もちろん、そればかりではありません。楽しみもあります。
ではその楽しみはどこから来るのか、考えてみましょう。
▼こちらの記事は、ゲームに取り憑かれてしまったこどもに対する対処法を紹介しています。
親塾~学校とは何か②もし文字を知らなかったら
学校とは、「抽象的な概念や考え方を学ぶ」場所です。
ここで一つ、想像力をめぐらせてください。
もしあなたが文字を知らなかったら、この世の中はどのように見えるでしょうか?
空が青いのはわかります。暑さ寒さもわかります。
おいしいものもわかるし、マズいものもわかります。
辛い、悲しい、そのような感情もなんとなくわかります。
でも、空の青さから宇宙を想像することは難しいでしょうし、月の満ち欠けから地球と月の距離や角度を想像することも難しいでしょう。
おいしいものは何からできていて、うまみ成分がどこから来るのかもわからないし、胡椒はどこで生産され、どのような形で収穫されるかもわかりません。
文字を知らず、教養が無いままだと、具体的なことしかわからなくなってしまいます。
具体的なことしかわからない、ということは、
動物と同じ生活です。
食べて寝て、空腹を感じ、なんとなく嬉しい、なんとなく悲しい、それだけの生活です。
近代以前は、学問は特権階級のものでした。
世の中で特権階級だけが、動物が感じる以上の教養を身に着け、月を見て宇宙を想像したり、悲しみを感じて潜在意識の存在を認識したり、スイカを見てそれがもたらされた遠い国を想像することができました。
近代以降では、学問は万人のものになりました。
わたしたちは学問を通じて、行ったことのない国のことを想像できますし、文字を通じて、見たことも無いものを脳内に組み立てることができます。
砂漠とは何か、宇宙船とはどのようなものか、も、すべて具体的に目の前に無くても、文字や勉強を通じてもたらされます。
学校で教わるのは、そういった抽象化能力です。
学校とはその抽象化能力を極限まで広げる訓練をするところです。
忍耐を学ぶところではありません。
学校が与えてくれるものは、個々人の抽象化能力を最大限まで広げ、人生を豊かにする土台を築いてくれるものです。
社会人になって、「数学のサインコサインなんて全然役に立たないな」と言う人は多いですが「数字一つでこんなに世界が広がる」とも言えますね。
人間らしい抽象化能力は、ある程度継続して頭に刺激を与えないといけません。抽象化する思考力は家庭で教わってもいいですし、図書館で本を読んでもいいのですが、それでは効率が悪いので学校で教わるのが一番です。
▼こちらの記事では潜在的に「我が子を愛せない」と恐れを抱いている人への処方箋を記しています。
親塾~学校とは何か③なぜ勉強するのか
学校で学ぶのは「忍耐」ではなく、「抽象的な思考力」であることを述べました。
では次に「なんで勉強しないといけないの?」「なんのために勉強するの?」とこどもに聞かれた場合です。
あなたならどう答えるでしょうか?
〇いい会社に就職するため
〇まともな人間として社会に認識してもらうため
〇結婚に有利
など、いろんなメリットはあるでしょう。どれも正解です。
でもある意味で、どれも答えとしては不十分です。
なぜ勉強するか、その答えは、
「人生に退屈しないため」であり、「いろんなことを知ることによってより豊かな人生を生きるため」に勉強する、が、正解だと思います。
例えば愛知県に旅行に行ったとして、徳川家康や織田信長のことを知らなければ、旅行に行っても楽しみが半減してしまいます。
愛知の名産であるきしめんや、ウナギパイをお土産に買って帰ったりするのも、「愛知県」に関する知識や教養があってこそのもので、知識があるだけで何気ない旅行よりもずっと旅が楽しめます。
数学を知っていれば「経済原論」の数式が理解でき、景気判断が分析できますし、古文を読めれば千年も前に書かれた『源氏物語』をより一層楽しむことができます。
勉強は、知識や教養は、人生をより深く味わい、人生楽しむためにするものです。
良い会社に就職するため、結婚相手を見つけるため、といったことはあくまで副次的なことです。
勉強の負荷があまりに強いと、「なんでこんな勉強しないといけないのか」とか、「なんのために勉強するのか」などという疑問が湧いてきますが、すべて「自分の人生を豊かにするため」だと思えば意欲も湧いてくるのではないでしょうか。
確かに・・・「自分の人生を豊かにするため」と考えれば、少なくとも「良い会社に入るため」よりもやる気が出るかも知れませんね。
こういうことを考えていくと、学校には行かないと損する、と思いませんか!?学校へ通うのは、就職のためでもなく、我慢を学ぶためでも無いのです。すべて、「自分の人生を豊かにする」ためなのです。
▼こちらの記事では、誰かに相談することによって問題がさらに解決から遠のくメカニズムを解説しています。
親塾~学校とは何か③おまけとして人間関係や忍耐も学べる
学校は「抽象的な思考力」を身に着けられ、「人生を豊かにする」知識や教養を身に着ける場所、と述べました。
そして、おまけとして、
〇人間関係を円滑に保つこと
〇社会に出て要求される忍耐
〇自分を客観的に捉えること
も学べます。
特に、「自分を客観的に捉えること」は、学校のような大勢の同世代が集う場所ではうってつけです。
こういった素晴らしいオマケも付いてくる学校は、やはり行かないと損です。
学校を否定する文化人を見ていても、どの方も高学歴で、学校が与えてくれるものを最大限吸収してからああいうことを言っているので、あんまり真に受けないほうがいいですね。
実は僕は、学校に対してあんまり良い印象を持っていませんでした。窮屈でしたし、勉強も苦痛でした。だから、こどもがそこから逃げているように見えて、許せなかったのかも知れません。
不登校のこどもの両親は、学校を否定的に見ていることが多く、「こどもに忍耐を強いる」感覚で学校に行かせているのかも知れませんが、学校の利点をもっと認識して欲しいです。
まとめ
学校とは、「抽象的思考力」を身に着ける場所であり、勉強は「人生を豊かにするため」にするもの、ということ、おわかりいただけましたでしょうか。
「不登校では社会に出てやっていけない」「忍耐が無いのは困る」などと心配して学校に行かせようとするよりも、親自身が学校の利点を認識しなおし、学校に行ったからこそ身につけられたことや、自分の人生を豊かにしてくれた部分を捉え直してみてください。
親の考えが変わると、こどもは変化を感じ取ります。
忍耐ではなく、自分の人生を豊かにするために行くところが「学校」なんだ、と思えたら、新しい展開が待っているかも知れません。
親が変わればこどもも変わる、というのは、安易に「学校に行かなくてもいいよ」と告げることではありません。
安易に「母親自身が幸せになる!」と決意することでもありません。
両親自身が、「勉強」や「学校」に対して認識を変えることから初めてください。
皆さんに少しでもお役に立ち、楽しんでもらえるよう、(ほぼ)毎日更新していきます。
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